栗山ミヅキ著『保安官エヴァンスの嘘』の感想です。
本作は「すれ違い」が面白さを生む非常に好みのタイプの漫画で、アニメ化が待ち望まれるお気に入りの作品。
最後まで世界観を壊すことなく、その持ち味を生かし続けたままキレイに完結しています。
巷にあふれる心が荒むような漫画にばかり触れてしまって疲れている方におすすめしたい一作です。
『保安官エヴァンスの嘘』どんな漫画?
「カッコよさ」と「くだらなさ」が同居した絶妙なすれ違いが楽しく、常に漫才の掛け合いを見ているような気分にさせてくれます。時にあまりに巧妙で感動さえ覚えるようなシーンも少なくありません。
基本的に、エヴァンスがカッコつけながら犯罪者を捕まえつつ、女性の気を引こうとするものの上手くいかずに終わる、の繰り返し。なのですが、カッコつけ(すれ違い)のパターンが本当に多種多様で飽きが来ないです。
毎回いつも通りのオチになると予想が付きながらも、「そう来るか!」「その発想はなかった!」という意外性と驚きを味わえます。どんでん返し系の作品が好きな方もハマること必至です。
以下、何かいろいろ本作についてとそれに結び付けて考えたことを長々と書いていますが、あくまでアウトプットのためですのであまり意味はありません(おそらくほとんどの人には)。本作が気になった方はとにかく今すぐ読んでみましょう。
少年漫画ならではの良さ
「モテる」ためだが恋愛ではない
主人公であるエヴァンスは、ガンマンとしての腕は超一流で「西部一の保安官」と称されるほど。
表では自分のイメージを壊さないよう硬派を気取っていますが、実際は、女性にモテるために保安官になったというところと未だに経験がないところが肝。
本作は少年漫画ならではの良いところが凝縮されています。まずこの「モテる」の目的が本当に絶妙(この場合の目的というのはモテた後にやることではなく、漫画的にそれを核に置くことの意味合いとしての目的)。昨今は少年誌掲載の漫画でありながら平然と男女の行為に及ぶような作品も少なくない中、ここまできちんとコメディの範囲で収まる節度を保った作品は貴重です。「モテる」の目的が良識の範疇で描かれています。
恋愛をメインとした漫画の場合、たいてい意味不明な葛藤に終始してて訳が分からなくなりますからね。「お前ら学生だよな?」「部活も勉強もせずに何やってるの?」とツッコミたくなることもしばしば。恋愛してる自分ってすごい!みたいな演出。ただ欲望を満たそうとする自分本位な状態に、恋愛と名前つけただけの滑稽さ。何より恋愛感情がさも崇高なものかのように扱われるのが気に食わない。
本作にその不快感がないのは、エヴァンスがモテるためと言いつつも、そのために努力を惜しまないからでしょう。あくまで「カッコよさ」を追求してモテようとする。モテるためと言いながら、本筋は「カッコよさ」。そしてそこから生まれるすれ違いのギャップ。そう、ここをメインとしているからこそ、エンターテインメントとして邪念なく気軽に楽しめるのです。少年漫画はこれでいいのです。
エヴァンスのように、利己的に見えながら、結果的に利他的になっているのがやはり理想。現実では、表面上は利他的を取り繕えていても自分だけが良い思いをしようと中身は私利私欲に塗れているために、方々に損害や不利益をもたらす人間である場合がほとんどですからね。
<老若男女問わず誰もが「カッコいい」を目指して生きれば世界は必ず平和になる>と私は信じています。
絶対的な信頼を置ける父の存在
幼いころのエヴァンスにガンマンとしてのスキルを教えつつ、数々のモテる秘訣を伝授したのは、エヴァンスの父であるカート。彼も凄腕のガンマンであり、カッコいいからという理由で素性を隠しながら、流浪のガンマン「名無しのカート」として名を馳せています。エヴァンスはこの父の教えを判断基準として行動していますが、それを愚直に守り過ぎた結果、更なる窮地に陥ることも珍しくありません。
カートのモテるための教えは、私情が入りすぎていて過去のやらかしが教訓となっていることが多いのが面白いポイント。たびたびエヴァンスが父の教えを思い出し、自分の行動理念の規範としカッコつけようとするものの、多くの場合失敗に終わるのは間違いなくそれが原因。とはいえ、エヴァンスが父を尊敬し絶対的な信頼を寄せているのはとても興味深いです。心の奥底から「この人なら大丈夫」と思えるような存在が身近にいることのありがたみ。これは現代人にはあまり経験できないのではないでしょうか。
人生の師匠と呼べる人間がいることの安心感は人生を確実に豊かにします。人生の指針となるような尊敬できる人物は、親でもいい友達でもいい歴史上の人物でもフィクションのキャラでもいいのです。とにかくそういう理想・行動規範となるような人間がいるかどうか、おそらくこれが人生を有意義にできるかどうかの分かれ目となると私は考えています。
少年漫画および子供には特にそのような人間が必要なのです。無理矢理そういう人間を拵えても意味がありません。もちろん、恋愛感情的な好意による対象ではありません。いわゆる「推し」も違います。嫌う疑う失望するとかの低レベルな次元にいない存在であることが絶対条件です。若いころは確かにすごかったんだろうけど、結局晩年を汚しクソみたいな人間に成り下がっているパターンは枚挙に暇がありませんよね。かと言って、完璧な人間じゃないとダメ、そう言っている訳ではありません。色んな失敗を経つつ色々模索しつつ時には苦しくてもがきつつ、それでも乗り越えてきたような人間的成熟さを持ち合わせているかが重要です。そう考えた場合、この現代に該当する人間はいるでしょうか。少なくとも私は知りません。
あまりにも大人の人間レベルが下がり過ぎています。根源・根本を深く考えずに、ただ生きながらえることに執着している浅ましい人間ばかりで溢れています。それはなぜか、過去の人間が作り出した基盤の上で右往左往しているだけだからです。今後この社会で尊敬できる絶対的な信頼を置ける人物が現れるとしたら、それは、文明や科学の進歩に一旦待ったをかけ、全人類の基盤の底上げ(≠人口増加)と地球環境の回復に世界中で協力して100年ほど集中してやってみましょうと呼び掛け実行できるような人間において他にいません。別にそれが特定の個人である必要はないんです。実際は、この世の多くの大人がそこに気付いて、協力するかどうかだけなんですよ。だから、いないんですけどね。
少年漫画である本作にカートのような父の存在がいるのは非常に喜ばしいことです。こんな世の中であっても、せめてフィクションの中にくらいは、そんな人物がいてほしいですから。
オークレイという至高のヒロイン
少年漫画のヒロインは、多くの場合、主人公の相手としてあらかじめ用意されている都合の良い道具のような存在であることが多いです。主人公が何らかの目標を達成したその先で巡り合うのではなく、お互い切磋琢磨し続けた上で後からヒロインになるのではなく、家畜に番いをあてがうかの如く、自然発生的になぜか最初からそこにいる。私はそれが非常に気持ち悪く感じてしまいます。
作品によっては、主人公の助けや支えとなるどころか、足を引っ張りまくり手間迷惑をかけまくるくせに、ヒロインという立場を最初から与えられてしまっているが故に、傍若無人で傲慢なキャラクターとなることも珍しくありません。そんなクズみたいな女をなぜか主人公は守る、大切にする、あの矛盾。気持ち悪いですよね。そうなってしまう原因は、時代遅れの家父長制的な日本社会に起因していると推察されます(この話は割愛)。
本作『保安官エヴァンスの嘘』に登場する賞金稼ぎのオークレイは、至高のヒロイン像を体現した存在です。エヴァンスに好意を寄せているものの、エヴァンスと同様に経験がないためにどうしたらいいか分かりません。積極的にアプローチを試みますが、エヴァンスの「カッコつけ」がピンポイントでぶっ刺さり、照れ顔をよく見せます。それが何より可愛らしいのです。普段は賞金稼ぎとしてエヴァンスに引けを取らないほどの射撃技術を駆使しながら犯罪者もタジタジの活躍をしているからこそなおさら。単なる庇護の対象となる女性ではなくエヴァンスも信頼して背中を預けられるような存在だからこそ、このギャップがたまらなく素敵なものになるんですよね。
昨今の主人公(および読者 笑)のリビドーを刺激するためだけの平然と裸で擦り寄ってくるような恥じらいのない興奮の道具としての女はもういらないんですよ、ましてや少年漫画には。ドラゴンボールも序盤こそはそうでしたが、中盤以降はそういった描写は一切なくなりますよね。そう、いらないんですよ、そんなものは。少年漫画的面白さにその要素は全くいらないんですよ。ほんとに邪魔。
オークレイがヒロインとして至高なのは、性格や服装、能力含めて、ちゃんと人間をしているからです。この世の多くのヒロインが、人間である前に「女」であることが強調されるような存在であることがほとんどの中、オークレイはちゃんと人間であることは大前提に、女性としても魅力的な面を持っているから素晴らしいのです。
いわゆるテンプレをぶち壊すために、粗野で暴力的なヒロインが一時期流行りました。口が悪く主人公に平然と暴力をふるい、か弱い女じゃありませんと無理矢理見せつけるようなヒロインが増えましたよね。今も男に暴力をふるえることが強さかと勘違いしている痛々しいキャラクターは溢れています。これからは男女平等の社会なんだぞという演出をする際に、手っ取り早いからそういう描写が好まれているだけなのです。これがフィクション的な手法と知らずに、現実でも男を否定することで自分たち女が能力的にも社会的にも優位に立っていると思い込んでこじらせている人は少なくありません。
女性としての魅力を捨て去った女に一体どんな価値があると言うのでしょうか。まあ、その反動で一周回って今度は若い世代の女性は、家父長制的な社会を望むようになっているようですけどね。「だって、男に媚び売ったほうが楽に稼げて楽に生きられるんなら、そっちのほうが賢いでしょ」と平然と道具になりに行っているようです。一方、若い世代の男どもはやたらと女性を持ち上げる傾向にありますよね。キャラ的な属性の付与(主に身体的特徴)があるかどうかでしか女性を見れていないように見受けられます。その対象から得られる興奮を絶対的なものと考えているフシがあるのは実に気持ち悪いです。女を甘やかし良い気分にさせる方向でしか接することができない。その関わり方で、将来や未来への建設的で生産的な意見交換などできるはずもありません。だから、男女ともに誰も得しない負のスパイラルに陥っていくのです。
今この世の中では、誰も、「人間」を求めていないんですよ。おそらく「人間」と呼べる存在が減ってきているから、知る機会がないんでしょうね、若い世代は特に。まあ、上の世代だからと言って「人間」を知っている訳でもないのですが。誰も「人間」を知らず「人間」について考えることもない、自分たちは「人間」であるはずなのに…。
現実はもはやどうでもいいですが、少なくとも少年漫画におけるヒロインは、本作のオークレイをお手本にキャラづくりをしてほしいものです。
まとめ:やさしい嘘とは何なのか
本作『保安官エヴァンスの嘘』は純粋な気持ちで楽しめる少年漫画。
タイトルはエヴァンスの嘘ですが、彼の嘘は人を騙し困らせようとするものは一つもありません。あくまでカッコつけようとしているに過ぎず、その結果損をするのはエヴァンスだけ。これを本当のやさしい嘘と言うのだと思います。
世間一般に認識されているやさしい嘘は、真実を伝えなかったり思っていることを遠回しに伝えたり、誰かが傷つかないように本当のことを言わないだけにすぎません。それをやさしいと言えるのでしょうか。ただの責任放棄でしかないのではないでしょうか。
例えば、明らかに直したほうがよい欠点があるのなら、間違った方向に進もうとしているのなら、それは伝えるべきなのです。真実を伝えることで、傷つくから恥をかかせることになるから、嘘をつく、それはただの傲慢です。それはやさしいとかではなく単なる嘘です。自己保身です。自分が嫌われたくないから、嘘でごまかすことをやさしいと呼ぶのはまさしく欺瞞です。
18世紀ドイツの哲学者カントも<いかなる場合であっても嘘はいけない>と主張しています。表面上しか考えられなければ「何言ってんだこいつ?」となるだけですが、この世の中は誰も彼もが「何言ってんだこいつ?」で止まって、その先やその意味を考えずに、否定批判するばかりで、ただただ疲れます。君らとは会話しても意味がない、となるのは当然です。カントが現代にいてこのようなことをXで呟こうものなら、袋叩きに遭うでしょうね。
⇒AIがつく嘘に悪意は含まれるのか?は面白い議題かもですね
まあ何はどうあれ、たまには少年漫画らしい少年漫画を読んで心を原点回帰させてみるのも悪くありませんよ。
すれ違いが面白さを生むコントが好きな方には特におすすめです。
以上、『保安官エヴァンスの嘘』の感想でした。
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