世界中で大ヒットしたオープンワールド時代劇アクションアドベンチャー『Ghost of Tsushima Director’s Cut』(PS5)のレビューです。
オリジナル版を2020年の発売日に買っておきながら5年も放置。続編が発売されるということで、やっとプレイしてみました。
Yōtei発売までにさらっと終わらせるつもりが、「これは丁寧にプレイしないともったいないゲームだ」と判断し、じっくりやることに。結局、プラチナトロフィー取得と追加ストーリー「壹岐之譚」までやり込みました。
もう続編が発売しているシリーズなので、レビューというよりも、感じたことや考えたことを中心に書いていきます。本作に良し悪しの評価は今さら要りませんからね。
Yōteiが気になっていて、まだTsushimaをやっていない方はぜひやってみてください。本作からやったほうが進化を感じられてよりYōteiを楽しめるはずです。というか、実際今楽しんでいます。
プレイ時間:60時間(プラチナ取得&壹岐編100%まで)
プラットフォーム:PS5
外国人がこれを作ったのか…。驚愕と畏敬
本作『Ghost of Tsushima(ゴーストオブツシマ)』は、1274年頃「元寇(蒙古襲来)」時の対馬が舞台。
私はその時代については歴史の教科書でわずかに知っている程度です。おそらく多くの日本人もそうではないでしょうか。
日本人すら興味関心の薄いそんな時代の出来事を題材に、ゲームをましてや外国人が作るとは驚く他ありません。そして、さらにここまでのクオリティの作品に昇華させるとは、もはや畏敬の念すら抱きました。
と同時に、「これを外国人に作らせちゃったらダメだろ…」と、やるせなさのようなものも感じました。
まさか外国人にここまで「日本」および「日本人」を描くことができようとは、日本人として何だか恥ずかしくなってしまったのです。
私は歴史に大して興味がなく、これまで戦国武将や三国志、新選組などにも触れずに生きてきました。過去の文学作品や伝記などはそこそこ読んできましたが、「歴史」というレベルで何か学ぼうとしたことは一度もありません。
だから、日本に馴染みがない外国人がここまで、時代についてだけではなく、日本人が大切にしていたはずの間(ま)や空気感、さらには意識の在り方までをも興味を持ち学び研究し、作品に仕上げていることに驚愕・感嘆しつつ、自らの学びの無さを悔やんだのです。
<愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ>とはドイツの鉄血宰相と呼ばれたビスマルクの格言ですが、この歴史(失敗)から今後学んでいくことができればと思いますね。
というような感想をもたらすくらいに、非常に質の高いゲームでした。
私個人の話だけではなく実際のところ、現代の東京(都市)ではない、古き良き伝統的な「日本」を舞台とした、日本(日本人)が作ったゲームシリーズってありますか?かつハイクオリティなタイトルってありますか?
日本人が主人公の日本の良質な物語とアクションを楽しめるゲーム…。うーん、パッと思い浮かびませんね。(『Rise of the Ronin』は趣が異なり対象外。まだシリーズではないし、本作の4年後発売だし)
外国人に先を越されるっていうところが「THE・今の日本」って感じです。もう完全完璧に日本として日本人として負けています。
きちんと「人間」が描かれている
最近よく他のレビューでも書くことの多い「人間」が描かれていないことへの嘆き。それらのゲームとは違い、本作ではシンプルかつ丁寧にきちんと「人間」が描かれていました。しかも、現代とは全く異なる時代でありながら、また、日本人ではない人が作っておきながら、そこには求めていたものがきっちりあったのです。
主人公である境井 仁(さかい じん)をはじめ、冒頭で仁を助ける野盗のゆな、家族を殺され復讐に燃える政子、蒙古へ寝返った弟子を追う石川、亡き兄の薙刀を持つ僧兵の典雄、仁の伯父である志村などなど。
ゲーム的な面や現代的な観点からすると、ビジュアル的に映える人物は一人も登場しません。しかし、だからこそ、彼らの人間性や人間臭さ、人間としての本質がシンプルに丁寧に、ダイレクトに印象深く伝わってきました。それも美しさすら感じるほどに。
人間の感情を深く掘り下げて闇を曝け出し詳らかにすることが人間を描くことではありません。その描き方だとたいていが「過剰な演技」、激しく罵ったり汚い言葉を使ったり大声で叫び散らしたり…に結び付きます。現代日本の作品ではそれが人間を描くことだと思っている節があります。
また、ビジュアル面で言うとそれが顕著です。ほとんどの場合、イケメンか美少女なのが日本の作品。もちろん、わざとブサイクにするのはナンセンスだと思いますが、見た目に比重を偏らせすぎるのもナンセンス。見た目だけでキャラクターを説明しようとし過ぎているのです。だから「人間」を描けない。
私は「人は見た目が9割」という言葉が嫌いです。
なぜならその9割は、見られる側ではなく、見る側に依存するからです。
現代人はあまりにも人間の判断がビジュアル部分に偏り過ぎているきらいがあると感じています。それはおそらく「簡単」だからに違いありません。見た目で判断することはとにかく簡単なのです。知る必要も考える必要もなく、容易に他人を知った気になれる。場合によってはそれで危険を回避できるからと。
確かに、いかにも怪しげな汚らしい格好をして、うつろげな目つきでぶつぶつと独り言を言いながら、ふらふらと彷徨うように歩く人間を見かけたら、それは当然避けるべきでしょう。
問題なのは、そのような判断を自分以外の人間全員に行っていないか?ということです。
例えば実際に、人の容姿は裁判結果にまで影響を及ぼしています。端的に言うと、同じ罪を犯してもブサイクよりイケメン(美女)のほうが罪が軽くなるのです。なんと世界中でこの傾向にあります。あまりにもひどいと思いませんか。
いくら何でも法律レベルで人の人生を左右する場で、「人は見た目が9割」が適用されるなんて、不条理極まりありません。
日本では裁判員制度が始まってから、この傾向が強くなりました。裁判という厳正であるべきはずの場に、普段の人間の行い・考え方が影響しているのです。本来は公正であるべき裁判結果に、恣意的な判断(個人の趣味)が含まれているのです。
(法廷でこれですから、日常生活では至る所で数えきれないほどの影響が出ています。その影響のせいで法廷に立つことになった可能性はさもありなん…)
日本がもはや法治国家ではないことは明らかになっていますが、政治家や裁判官など特殊な立場にいる人間の怠慢さ傲慢さだけでなく、日本人一人ひとりの「簡単」になびいた浅い考えがそうさせているのだと、この事例だけ見てもはっきり分かります。
また現在では、不登校の子供や10代の自殺が過去最多になっているようです。
子供の絶対数が減っているのに過去最多になることの異常性は、筆舌に尽くしがたい領域に達しています。狂っているという言葉では到底言い表せません。「自分の子供は問題なく学校に通えてるしいじめられてもない。だから関係ない」子供がいる親ですらその程度の認識です。そもそも何も考えていないかもしれません。
電車の人身事故もそうです。体感だけでなくデータとしても確実に増加しています。
事故に遭遇した人々は「またか、会社に連絡しなきゃ」「会社遅れるじゃん。面倒だな」くらいの感想しか抱きません。それどころか「何やってんだよ、死ぬなら迷惑かからないように死ねよ」と悪態をつく人さえいる始末。
これを果たして「人間」と呼べるでしょうか?
あなたは本当に人間でしょうか?
自信を持って「私は人間です」と宣言できるでしょうか?
知らず知らずのうちに「人間」をやめてしまっていませんか?
「人は見た目が9割」だと考えて、体を鍛え髪型を整え服装に気を遣い清潔感を出す。それは大いに結構。
しかし、見られる側であると同時に、見る側の存在として、見る能力や基本、知識を具えていなければなりません。そして、見て判断することへの責任を常に負い続けなければなりません。それができている人は限りなく少ないです(著しく減っています)。
現代人は「人間」について考える機会が少なすぎです。見るほうが間違っている可能性を考慮できていないのもそれが要因です。見るだけで判断できると思い込んでいるのは、怠慢や傲慢の明らかな表出であり、人として未熟である証左に他なりません。
この国にはそのような人間の形をしただけの人になり切れていない「ヒトモドキ」が跋扈しています。そう、まさにヒトモドキ。ヒトモドキという新種の生物が生まれていると考えないと納得できません。先に挙げた事例からもそうですし、SNSは言うまでもなく「一目」瞭然。
日本人はヒトモドキという地球外生命体に半分以上が乗っ取られていました。だから、色々おかしな出来事が続いていたんです。正直に、そんなSFホラー漫画みたいな真相が判明してくれたほうが割り切れて、安心できるだろうとさえ思います。それほどに歪。
実際、歴史を振り返る限り過去の陰惨な事件を知る限り、本当に古来よりヒトモドキは存在していて、現代はその割合が増えただけなのかもしれません。
このような世情の中、だから私は、フィクションにおいてさえ「人間」を見失っている、まるで描けていない状態が続いていることを嘆いていたのです。ついにヒトモドキがヒトモドキをターゲットに商売を始めたのか?そんな感覚を抱いていたのです。
本作『Ghost of Tsushima(ゴーストオブツシマ)』をプレイして私は何より安堵しました。「ああ、まだ人間がいるじゃないか」と。登場人物がきちんと人間している。これだけで本当に嬉しかったです。
心地よい会話と人間
本作の登場人物の会話は、軽妙な海外ドラマと似た心地良さがありました。
実際にそこに人間がいて自分の信念や考えを持って対話している様子がしっかり感じられます。セリフを読んでいるのではなく、相手としっかり話をしているのです。
邦画や日本のゲームによくある野暮なセンスのないやり取りでは、この感覚はまったく得られません。
例えば、Aという問い対する直接的な返答をA’、また、Bという考えに対する直接的な意見をB’とします。
相手がA’やB’しか返してこない場合、AやBを最初に持ち出した側がずっと話題を提供し続けないといけません。でないと会話が途切れてしまいます。日本人の会話はよくこの状況に陥りがちです。
(たまに客をこのAやBの提供側にして、自分はA’やB’側になる美容師がいますが、あれは無能の極みです。もっと引き出しを増やせ)
ところが、これがきちんと人間同士の会話である場合、Aという問いにB’という返しをしたり、B’の返しにDという意見を出したりというようなことは珍しくありません。途中のA’、C、C’がなくても、それで十分に通じ合っているし、傍から見ても理解できます(これは見る人によりますが)。
お互いが頭を使いながら相手のこと(性格や状況その他諸々)を思慮しながら言葉を紡いでいるためこれが可能なのです。言葉にすべきことはしっかり発言し、言うまでもないことは省略する。相手の表情や声色からも察する。無駄が省かれ洗練されているから、ただの会話なのに心地良ささえ感じられるのです。
しかし、これを現実でもしようとすると相手を見極めなくてはなりません。
Aに対していきなりポンとB’を返そうものなら、ポカンとされるだけならまだしも、「質問に答えろよ」みたいな態度でもう一回Aを訊いてくる場合があります。もちろん、お互いに共通認識や前提知識がある関係での話です。にもかかわらず、この状態になることは頻繁にありました(かつて)。ひどい場合にはこちらがコミュ障もしくは変人扱いされます。
こういうことが何度かあって以来、相手を選んで相手に合わせて会話をするようにしていますが、やっぱり「人間」が減った影響なのでしょうね。同世代でも話が通じないことが普通にあります。疲れるんですよね。こちらは会話自体が目的ではなく、それを手段に情報の共有や条件の達成、意思の確認をしようとしているのに。
プライベートな「おしゃべり」だったらどうでもいいですよ。取り留めもない話をする楽しさは人それぞれでしょうから。多少齟齬が生じても何ら問題ないかもしれません。ですが、少なくとも仕事上においてくらいは、円滑な会話が成立してほしいですよ。
以下、悪い実例。
「○○は終わりましたか?」「終わりました」
「では、△△の状況はどうなっていますか」「まだ取り掛かれていません」
「いつ頃取り掛かれそうですか?」「今日は忙しいので明日からやります」
「いつまでに終わりそうですか?」「今週中には終わらせます」
「□□も今週が締め切りなので、配分考えてやってください。終わりそうにない場合は早めに知らせてください」「はい、分かりました」
「何か質問や分からないところはありますか?」「ありません」
あー、思い出すだけでもイライラしますね笑。何このクソみたいな会話。今ならAIのほうがまともな返ししますよ。それにこの後、△△も□□も終わらずに報告もせずに金曜日を迎えますからね、こいつ。まさにヒトモドキ。これで聞き方が悪いとか、途中で確認しないほうが悪いとか、忙しそうにしてたから報告できなかったとか言われたらたまったものではないですよ。ダメだ、この例だとあまりにもレベルが低すぎて、それこそお話になりませんね。
このどうでもいい卑近な会話例は置いておくにしても、割と本当にあらゆる場面でこんな感じで会話(意思疎通)のできない人間が増えています。
この日本では確実に「人間」が減って、ヒトモドキが繁殖している。だから、それを作るほうも見るほうも(AからB’に移行するような会話を)理解できないから、心地よい会話がゲーム(フィクション)内においてすら表現できないのでしょう。
対して本作『Ghost of Tsushima(ゴーストオブツシマ)』では、会話一つとってみても、きちんと「人間」が描かれていることが分かります。
それも、日本人が大切にしていたはずの間(ま)や空気感、さらには意識の在り方までも表現しながら。
はあ、本来これは日本人のお家芸だったはずなんだけどなあ…。
スタンダードで高水準なオープンワールド
オープンワールドというジャンルが登場して久しいですが、本作は実にスタンダードだと感じました。
これまでのオープンワールドに感じた不快感、煩わしさ、イライラが極力排除されています。オープンワールドゲームとしての目新しさはありませんが、すべてが高水準でまとまっていて、意地の悪さや悪意を感じるような場面が一切ありません。
“風”が行き先を教えてくれるのも良いシステムです。ロード時間がおそろしく短いのも非常に快適でした。
「この世界をぜひとも堪能してほしい」という思いで作られていることが大いに伝わってきます。必要な要素を、必要十分に過不足なく満たしているゲームです。
戦闘について
この時代にできるであろうと考えられる戦闘はすべて可能です。
刀や弓だけでなく、豊富に投擲武器や暗器があり、受け流しや見切り、相手の武器によって「型」の変更、また、必殺技もあるため、戦いに緩急とバリエーションをもたらしてくれます。
「てつはう」が武器として使えるのはこの時代ならではですね。教科書でしか見たことのない名称の爆弾を使える時が来るとは思いもしませんでした。笑
もちろん、背後や屋根の上から忍び寄り攻撃するステルスキルもあります。私はこのスタイルが大好きなので、こればっかりしていました。「お侍様の戦い方じゃない…」
戦いの選択肢が多いのはオープンワールドにおいては特に重要です。毎回同じ戦い方だと飽きますからね。
1対1の戦いも見どころ
侍らしく1対1の戦いも本作ならではの魅力。遠距離武器や投擲武器は使えず、刀だけの戦いとなります。
普段は弓での遠距離から攻撃、てつはうやとりもち玉などアイテムの物量で圧倒できますが、この戦いは相手の動きを見極めて、受け流すのか避けるのか攻撃するのかを的確に判断する必要があります。そのため、そこそこ難易度が高いです。
でもそれが程良い緊張感を生んでいて、生きるか死ぬかのスリルを堪能できます。
選択肢を増やす一方で、制限されることによる面白さも取り入れる。
ストレスを抱かせないシステムになっていることと言い、プレイヤーの動きや傾向を非常に細かく研究して作ってあることが分かります。
本作の開発者にはぜひホラーゲームを作ってほしいものですね。笑
「人間」はここにいる
『Ghost of Tsushima(ゴーストオブツシマ)』は5年越しのプレイとなりましたが、続編のYōteiはすぐさまプレイしようと思います。こんな名作を5年も放置していたとは、もったいないことをしてしまいましたからね。
私が思う「人間」がまだ存在していたことを確認できた意味で、大いにプレイする価値のあった本作。私の中で単なる良くできた名作ではなくなりました。
もちろん、もっと哲学的に「人間」に触れるゲームはあるのでしょう。しかし、プレイできるゲームであることをおざなりにすることなく、シンプルだけど丁寧にそれを表現できているということが何より重要なのです。最近は好きだったシリーズが自分の中でどんどん終わっていってますからね。
ここまで印象深く高品質にまとまった作品に出会えて本当によかったです。
Yōteiが気になっている(プレイしていない)方は、Tsushimaからプレイすることをおすすめします。
以上、『Ghost of Tsushima(ゴーストオブツシマ)Director’s Cut』のレビュー(感想と評価)でした。













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