映画『ぼくのエリ 200歳の少女』の感想です。
アマプラに登場していたので、久しぶりに観てみました(Blu-rayを所持しているくらい好きな映画です)。
プライムビデオはマニアックな作品が時折現れるのがいいですよね。
本作は、北欧(スウェーデン)を舞台とした、少年とヴァンパイアの切なく甘いラブストーリー。
に、血の匂いと雪の冷たさ、日照時間の短い北欧特有の薄暗さと、かじかんだ手に吹きかける吐息の生温さが混在して感じられるような空気感を堪能できる映画です。
日本版タイトルと“ぼかし”によって、複雑な解釈をもたらすことができてしまう本作。
まずは予備知識なしに観てみましょう。
独自の解釈について触れているので、未視聴の方はこの感想を読む前に観ることを強くお勧めします。
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『ぼくのエリ 200歳の少女』
あらすじと感想について
いじめられっこで繊細な12歳の少年オスカー。
友達が欲しいという孤独な少年の願いは、同じ12歳のエリが父親と共に隣の家に越してきた事で、とうとう叶えられそうだ。
しかし青ざめた顔をした少女の外出は夜だけ。
キャンディも食べられない。そしてエリが現れた頃と時を同じくして、街では不可解な失踪や殺人が次々と起きはじめる…。
恐ろしい話が大好きで内向的なオスカーはエリがヴァンパイアだと気付く。
12歳の体に永遠の命を閉じ込められたまま生きるエリは、常に旅をし続けなければならない。
ふたりの幼い恋が終わるかに見えた時、オスカーに最大の悲劇が襲いかかる。
エリは彼女が出来る唯一の方法で彼を守るため、戻ってくる…。引用:Amazon商品説明
10年以上ぶりくらいに本作を観返して真っ先に抱いたのが、そういえば長らく<映画>を見ていなかったな、という感想。独自の空気感が「映画って作品って物語ってこういうものだよな……」と思い出させてくれました。
大学生の時に初めて観て、その形容しがたい、不安感と安堵感が同時に去来するかのような雰囲気に圧倒されたことを覚えています。以来、私のデスクトップの壁紙は年中雪景色でローテーション。
しかし、今回の視聴で捉え方が大きく変わった部分があります。大学生時はまだオスカーに感情移入するしかなかったからでしょうね。これを成長と呼べるのであればいいのですが……。
以下、現在の考えを書き連ねています。本作の余韻を壊したくない方は読まないほうがいいでしょう。
長く生きるということ
吸血鬼ものの作品は数多くありますが、日常から逸脱していないことに本作の魅力はあります。
純粋さと狂気、無垢と無知、生と死。それらが紙一重で存在していることを痛感させてきます。
純粋さは必ずしも美徳とは限りません。
日常に潜む非日常の危うさに、純粋がゆえに無垢がゆえに容易に不用意に近づいてしまう。
200年も生き続けてきた「少女」に、果たしてオスカーの、少年の気持ちが理解できるでしょうか。かつてはその心があったとしても、もう忘れているでしょう。思い出すことすら難しいでしょう。
オスカーは、エリがヴァンパイアだと気づいても、○○だと分かっても、態度を変えることなくそのまま接します。驚きはしても、過剰な拒絶反応は示しません。ただ単純に「友達が欲しい」という少年の心のまま行動するのです。
無垢ではなく、無知。
無知は罪。
では、罪であるからと言って、何が悪い?
本作では人を殺すことを咎める描写はありません。
オスカーやエリではなく、殺された夫婦やいじめっ子たちに感情移入する人はまずいません。視聴後にせいぜいオスカーの両親の心情を慮るくらいでしょう。
本当は人殺しが悪いだなんて誰も思っていないんですよ。
クズは殺されて然るべきだし、世の中の役に立たない無能たちは生きている価値がない死ぬべきだ。口に出さなくても大勢の人がそう思っています。
ただ、自分が殺されたら困るから大っぴらにはしない。ただそれだけです。
道徳とか倫理観とかそんなものに根拠はありません。社会が作り出した虚構です。
200歳のヴァンパイアに、現代の実際の人間と同じようなモラルがあるとは到底思えません。
オスカーがエリに抱く気持ちと、エリがオスカーに抱く気持ちが同じである訳がありません。
愛情すらも打算的なものであると気づかないために、人は無知であることを選びます。
あるいは、寂しさを紛らわせるために。
「女の子じゃなくても?」というセリフの解釈
本作『ぼくのエリ 200歳の少女』を強く印象付け、そして、複雑な解釈を生ませることになった「女の子じゃなくても?」というセリフとそれに関連する話について。
男女の友情は成立するか否か、という陳腐な議題
男女で友情は成立するのかしないのか。時たまこういう話題を見かけますよね。実に馬鹿らしい議題です。
それはなぜか。そもそも、男女で~という前提の時点で、それは通常成立しないものであると断定してしまっているからです。
ただし、こう考えてみましょう。言い換えてみましょう。
「人間と人間の友情は成立するか?」
この場合は、それは成立するとほぼ100%の人が答えます。友情の存在を否定する人はいないでしょうしね。
ではなぜ、男女になった瞬間に議論に発展するのでしょうか。
男も女も人間のはずです。
私がもしこの議題を論じる場にいたら、こう答えます。
「男女では友情は絶対に成立しません。ただし、人間と人間の友情は確実に成立します。そして、私とあなたであれば、同様に成立しうるでしょう」と。
こういう風に、抽象度を上げる(男女⇒人間)下げる(男女⇒特定の人物)テクニックを私はよく使います。これで大抵の議論に対応できますからね。
さらに、こう付け加えれば、説得力(とユーモアさ)も増します。
「念のため確認ですが、あなたは人間ですよね?」と。
この議題は、思い込みや偏見により自分が立っている場所からしか物事を見れない人を炙り出せるという点では効果的で良いのかもしれません。
はじめから男だから女だから、そんな不平等な視点で見てしまっている時点で間違っているんですよ。だから、陳腐で馬鹿らしいのです。その間違いに気づかずに議論していることが何よりもね。
もし人間ではなかったら?
本作を象徴するエリのセリフ。
「女の子じゃなくても?」
普通に素直な気持ちで観ていれば、「そりゃあ200歳のヴァンパイアだもんな~」と受け取ることになります。ぼかしあり日本版の場合、最後までこのセリフに格別な疑問を挟むことなく終わるでしょう。
実際、私が大学生の時はそうでした。前知識もなく、TSUTAYAで面白そうだと思って借りただけでしたし。
しかし、ぼかしなしバージョンを見たいという私の純粋な(?)興味により、とんでもなく意外な事実を知ることとなったのです。
エリは少女ではありませんでした。
それは200歳だから少女ではないという意味ではなく、ヴァンパイアだから少女(人間)でもないという意味でもなく、エリは「少年」だったのです。
(だから日本版のタイトルとぼかしは本当にセンスがない…。作品クラッシャーです。そのおかげで叙述トリック的な楽しさが生まれたと好意的に解釈することもできますが…)
ぼかしがなければ、後半で気づくことができます。
それにより、オスカーの純粋さが際立つ訳です。何歳であろうが、ヴァンパイアであろうが、男であろうが…。
男女の友情は成立しない?
そんな議論が馬鹿らしくなってきますよね。人間でなくても成立するものが、人間に成立しない訳がない。
そもそも友情とは何か定義できますか?
友情が何なのか知らずに、成立するしないを論じるなんて、それこそ馬鹿らしい。
男か女かに関係なく、人間と人間であれば友情は成立する。人間でなくても成立するのだから。それが結論。
オスカーはそれを明確に示してくれています。
大人には持ちえない、無知であるが故の純粋さによって。
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『ぼくのエリ 200歳の少女』
ホーカンというオスカーの前世
エリのお父さん役のおじいさんである、ホーカン。
彼はエリのために、血を回収する役目を担っています。
初めて鑑賞した時、私は、このホーカンがオスカーの未来の姿に見えました。
鑑賞中は、同一人物なのではないかというSFチックな見方もしていましたね。
オスカーは友情や愛を感じられていたとしても、エリ視点からは果たしてどうでしょうか。
オスカーも数十年後には硫酸を浴びて死ぬことになるかもしれません。
ここが本作を一筋縄でいかせない魅力です。
単なるボーイミーツガールではない点がここにもあります。
ホーカンの血を吸って殺す時、エリに確かに愛情が感じられました。ホーカンとの長い年月を噛み締めるような仕草に感じられました。小間使いのような使い捨ての人間という認識ではなかったはずです。
大学生時の解釈では、エリはオスカーを本気で心配し、だから助けに来たのだと受け取りました。2人で列車に乗ってどこか遠くへ行くこと自体に希望すら感じられました。
いじめっ子への復讐という爽快感も相まって、エリの強烈なインパクトに身も心もダメにされたのでしょう。オスカーがそうであるように。
今回、改めて見て、やはりオスカーはいずれホーカンのようになるに違いないと考えました。
<長く生きるということ>の項でも書いたように、200歳の人間に12歳の少年と同じ考えはできません。同じ思いを共有することもできません。
しかし、
寂しさゆえにそれは本物となる
表面上の幸福の裏側に潜む、現実という闇。
この恐ろしさを200年生きたエリが知らないはずはありません。
人は寂しいから生きます。
生きた証も残せず、誰に死んだことも知られずに、終わる。
それを受け入れられないから、人と関わり、何かしらを確かめようとする。築こうとする。
生まれた意味も価値も無いと思いたくないから。
今死んでも数十年後に死んでも何も変わらない。事実そうだとしても、それはあまりにも寂しい。
だから、生きる。
寂しいから人は生きる。
エリの気持ちがどうあれ、この寂しさを知っているのは間違いありません。200年も生きれば、普通の人間とは比べるべくもなく知り尽くしているはずです。
オスカーと同じ愛情ではなくとも、純粋な気持ちではなくとも、エリがオスカーを大事に想っているのは変わりありません。
幼いながらもオスカーは、エリのその気持ちに気付いたからこそ、エリを受け入れたのでしょう。
それこそが、Let me in.
相手を受け入れる時、相手もまた受け入れてくれているのです。
<ハッピーエンドかどうかは、物語をどこで終わらせるかによって決まる>
(If you want a happy ending, that depends, of course, on where you stop your story.)
これは、映画監督・俳優であるオーソン・ウェルズの有名な言葉です。
本作は、ハッピーなところでエンディングを迎えます。
今後どうなるかは妄想するしかありませんし、いずれホーカンのようになるのかは誰にも分かりません。エリに純粋な愛情があったのかどうかもはっきりとは分かりません。
そうだったとしても、そうでなかったとしても、それが不幸(バッドエンド)であるとも言えません。
私は、この愛を「本物」だと確信しています。
以上、『ぼくのエリ 200歳の少女』の感想でした。
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『ぼくのエリ 200歳の少女』

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