サイレントヒル2原作の映画『リターン・トゥ・サイレントヒル』の感想です。
映画1作目と同じ監督ということで期待が大きかったものの、想定を超える内容ではありませんでした。良くも悪くもゲームに「忠実」すぎて自由度を失ってしまった作品になっています。
やはり1作目ほどの衝撃は得られませんでした。
おそらくゲームのサイレントヒルを一切知らない方のほうが楽しめるでしょう。
サイコロジカルホラー、パニックホラーとしては充分なクオリティです。
Amazonプライムビデオで視聴できるので、興味がある方はゲームと比較せずに観ましょう。
以下は、原作ゲームをプレイしている前提で評価・感想をまとめています。
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『リターン・トゥ・サイレントヒル』
ゲームに良くも悪くも「忠実」
様々な改変はあるものの、あの原作ゲームからプレイする部分だけ省いて、観るだけの映画にしたら当然こうなるだろう、といった感じでした。
本作は、鉄パイプで殴るシーンも、銃を使うシーンも、謎解きシーンもありません。レッドピラミッドシングとの戦闘すらありません。
特にリメイク2は、澱んだ泥沼に深く沈み込んだ状態から水面目指して這い上がろうとするようなプレイ感覚が特徴です。そのゲーム部分を削っただけとなれば必然、退屈でつまらない作品になるのは分かりきったこと。
映画1作目は改変がありつつも名作に仕上がっているのは、原作に忠実ではなく「誠実」に作ったおかげです(監督談)。
ところが、本作はそれを忘れて、忠実にし過ぎてしまっています。
この「忠実」というのは、原作通り何も変えずに、という意味ではなく、原作を逸脱してしまうことを恐れて「従順」に作ったという意味合い。
まるで誰かを人質に取られて時間のない中無理に作らされたのではないか、そんな印象さえ抱きました。
らしくないんですよね。リベレーションを非難しておきながら本作のこの出来具合。同一人物かさえ怪しいレベルです。これなら、リベレーションのラストに出てくる、トラヴィスを主人公にした「0」の映画を作ったほうが良かったかもしれません。
映画ならではの改変は分かりやすくて良い
ゲームと比較してみると問題点ばかりですが、映画ならではの改変は功を奏していたように思います。
ゲームは想像で補わないといけない部分が多いため、世界観の理解が非常に困難でした。
ジェイムスが何者なのかもわからない状態で、あの世界を探索しないといけないのはとてつもなくツラいですし(特にリメイク版)。いくらホラーゲームとはいえ、説明不足が極まっていて、キャラクターの境遇・心情を妄想で推し量ることしかできませんでしたからね。
対して本映画は、ジェイムスが画家だったり、メアリーがサイレントヒル出身だったり、2人の出会いが語られたりと、ゲームでは想像するしかなかった部分が描かれています。街を彷徨う過程で、過去回想が挟まれるのは良い手法だと思いました。(ゲームにもほしかった。特にリメイク)
ジェイムスが入院しているシーンで、サイレントヒルが精神世界と確定できるのも、実に分かりやすい。
この点は映画としては良い改変です。映画はこのくらい分かりやすいほうが良いでしょう。
サイコロジカルホラー、パニックホラーとしては充分なクオリティと言えます。
「ゲーム原作のホラー映画」という情報だけ知った状態の、サイレントヒルを一切知らない人が観るのであれば、他ホラー映画と遜色なく楽しめるクオリティでしょう。
ただし、ジェイムス、メアリー共に若すぎます。チャラいです。
スマホがある時代設定だし、現代の若者カップルになってしまっているため、人間関係や物語に重みがありません。メアリーからの手紙の重みも全くないんですよね。
というか今回は、まだ結婚していないから、妻ですらないのか…。本作の物足りなさはこれが最大要因でしょう。
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『リターン・トゥ・サイレントヒル』
クリーチャーの造形美への消えたこだわり
リベレーションではなぜか守護神と化していたレッドピラミッドシング。本作では単なるクリーチャーの一匹になっています。
今回は本来の役割通りの存在と言えばそうなのですが、逆にそのせいで、彼に抱いていた、尊崇や畏怖の念と言ったものが消えてしまいました。圧倒的な支配者のような存在感、サイレントヒルの主、象徴という印象はまったく感じられませんでした。
情けないうめき声を上げたらダメでしょう。寡黙だからこそ、カッコよさを醸していたのに。あと肉体。
バブルヘッドナースもダメ。陶器製なのはつまらないですよ。あの肉感が良かったのに。膿・腫瘍で覆われたような顔も変わっていますし。
それから、最後のクリーチャー化したメアリー。
眼がはっきり見えるのはあまりにもナンセンスです。役者の瞳がそのまま見えるのは、ホラーとしては論外と言ってもいいレベル。なぜ蛾モチーフなのかも分かりませんし。
映画的には見やすくなっていても、種々のこだわるべき部分が今作はすべて蔑ろにされています。動きがあった分、リベレーションのほうが面白かったですね。
いや本当に、1作目と同じ監督の作品なのか疑わしくなってきました。
ホラー作品は、焦燥感や葛藤、執念や怒り、虚無感、絶望、耐えがたい不安感、強烈な飢餓感といったものを日々感じている人間にしか生み出せないんですよ。ぬくぬくとぬるま湯に浸かった状態では、名作ホラーを作るのは不可能なんですよ。
人知れず暗い部屋でもがき苦しんでいるような人間でなければ、真のホラーは作れない。
改めてそう思いました。
有名になっても大金を得ても、それでも質の高いホラーを作り続けられる人間はやはり存在しないようです。
だから、有名なホラーシリーズがことごとく終わりを迎えているのでしょう。
ホラーの存在価値の行方
本作『リターン・トゥ・サイレントヒル』を観て思ったのは、原作2を神格化しすぎていたのではないかということ。
本映画のサイレントヒルとしての評価は、正直言って「f」なんかよりはるかに上です。充分にサイレントヒルをしていました。なぜならサイレントヒルが舞台ですからね。そこは決定的に違います。
映画として面白くないのと、ゲームとして面白くないのだったらどっちがマシでしょうか。サイレントヒルはそもそもどちら寄り作品なのでしょうか。
そう考えると、「まあ、こんなもんでしょ」という感想に落ち着く気もします。
原作の哲学的な奥深さを知るにはネットで情報を集めねば到底分かりませんでしたし、リアルの友達と感想を語り合うような内容でもありませんでした。
難解さが好まれるのは、文学世界からすれば珍しくありません。遅れてゲームがその領域に入っただけのこと。
ただ、異様に評価されたのは、その世界を楽しめる周りとは少し違う自分を好きになった人が増えただけなのかもしれません。
いわば10代の早い時点で文学作品を好み悦に浸る少年の優越感が、ゲームという媒体であることにより、過剰に表現されたのでしょう。
今思えばそれで良かった。そこあたりまでのホラーを好む人には、ホラーを好むことの異常性への自覚と理性がありましたからね。
ホラーは社会に必要なくなった
しかし現代では、原作ゲームのような「ホラー」はもう求められなくなりました。
大衆に広まるにつれて、自覚と理性を伴うべきであるという知性が失われたからです。
ある程度、社会的・経済的な未来がまだ人類に見えていた2000年代前半までは、ホラーは異質の世界でした。ごく一部の人が、その残酷で狂気的で胡乱でありながら確かに存在しうるその世界に惹かれていたのです。
資本主義(金融礼賛)社会の中で、周りが浮かれて騒ぎはしゃぎまわる一方、一人で闇の中にある現実を見つめる。
現実と呼ばれるものに現実感を見出せず、残酷な物語の中にしかないであろう真実を追求する。
ホラーはフィクションであって、フィクションではなかった。
電気が点いているから灯りがあるから明るく見えるだけで、基本的には闇に覆われているのが人間社会。
他者の苦痛を無視して蹴落とし、自己の欲望を満たし快楽を求めたものが、成功者と称賛される世界。
そんな世の中に警鐘を鳴らし、誰もがいずれ死ぬただの肉塊でしかないことを自覚させ、立ち止まる機会を促したのがホラーでした。
経済的な成長など科学的な発展などいずれ意味をなくすのだと。ホラーに惹かれる人たちは間違いなくそれを知っていました。
ところが大衆を買いかぶりすぎていたのでしょう。
人々が闇の中にある現実を見つめるには、ひどく未熟すぎたのです。
貞子や伽椰子が始球式に登場し始めたあたりで、完全に「ホラー」の必要性はこの社会から消え失せたように思います。
思考を放棄して衆愚に染まる。それこそがホラー
さらに、ゲーム実況で誰でも気軽に(誰かと一緒に)ホラーに触れるようになれば、その価値や意義が変容するのは当然です。
味わうべき苦悩から目をそらし、自らの存在意義を問いただすこともなく、群衆の中に紛れ込み、人々と同一化することで自己を正当化する。
多数派に属することだけが唯一のアイデンティティである現代人。
理解の及ばない世界には蓋をし、陽気なふりしておどけて誤魔化す。そして、一笑に付す。
ホラーはそんな社会の犠牲になりました。ホラーの役目は終わりを迎えました。
なぜなら、この社会こそがすでにホラー化しているからです。
いまや我々はホラー作品の登場人物なのです。
あくまでフィクションだったからこそ、省みるチャンスがあったのに、それが現実になってしまっては、完全に手遅れ。もう後戻りはできません。
本作が確信させたホラーの行方
本作『リターン・トゥ・サイレントヒル』は、私の中でホラーの行方を決定付けたように思います。
私が好きなホラー作品がことごとく終わりを迎えている中、インディーホラーゲームで何とか余喘を保つような気分になっていた近頃。
やはり作り手側が「かつての」ホラーに身を浸せなくなっているのだと確信できました。
当然、こんな先行き不透明な社会になって、人類の存在意義が哲学的な問題ではなく、日常的にも問われるような状態になれば、フィクションとして<それ>を頭の外に逃がせませんからね。
人の物語に価値や意味がなくなり、それが失われ無念に思う気持ちや、死者への畏怖・恐怖がなくなれば、ホラーは成立しません。人の命が、戦時中と同じように軽くなった社会にホラーは必要ありません。
ホラーは平和な世の中にしかないのです。
平和だったからこそ、それを大切にする意味で、ホラーはあったのだと、思い至りました。
そう、ホラーは死んだのです。神に次いで。
以上、『リターン・トゥ・サイレントヒル』の感想でした。
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『リターン・トゥ・サイレントヒル』



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