感想『セッション』~クズにはクズをぶつけんだよ!狂気と執念の行方~

『セッション』感想評価レビュー

生々しく過去の苦渋を呼び起こす映画『セッション』

アマプラで視聴期間が終わりそうだったので「評価高いし観てみるか」と軽い気持ちで観始めたところ、いろいろ(思い出したくない過去の実体験を呼び起こされて)心を持ってイかれました。

でありながら、観て良かったと心から言える名作です。

人によっては拒絶反応が出て観る気力が到底起きなくなるかもですが、それだけの迸るエネルギーがこの映画にはあります。

その感じるエネルギーが正なのか負なのかは、観る人の性質もしくは過去の経験によって変わるでしょう。

一番驚きなのは、この映画が絶賛される世界の懐の広さに違いありません。

以下、本作を観た感想になります。
この映画に拒絶反応を示す方は同様にこの感想にも拒絶反応を示してしまうかもしれませんので、ご注意ください。

あと、核心には触れませんが所々ネタバレがあります。

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簡単なあらすじと概要

あらすじ

偉大なジャズドラマーを目指し、アメリカ最高峰の音楽学校、シェイファー音楽院に通う主人公・アンドリュー。
ある日、一人でドラムの練習をするアンドリューのもとに、学院最高の指導者と名高いテレンス・フレッチャーが現れる。そして、テレンスが指揮するバンドチームに勧誘してくるのだった。

意気揚々とバンドチームの練習へ向かうアンドリューだったが、
そこは、テレンスによる生徒への容赦ない罵詈雑言と人格否定の怒声が飛び交いまくる狂気の世界であった。
学生たちに度を越えた要求をし、彼の思い通りに演奏できなければ、精神が崩壊するまで痛めつけるのは当たり前。
テレンスは一流のミュージシャンを輩出することに憑りつかれた指導者とは名ばかりの人格破綻者だったのである。

さっそく、わずかなテンポのズレを理由にテレンスから罵倒を受け始めるアンドリュー。
ついには椅子まで投げつけられ、頬を引っ叩かれ、屈辱的な誹りを浴びせかけられる。

それでも、アンドリューは…

『セッション』は「スポ根」映画

普通に考えれば、椅子を投げつけられた時点で終わりです。終わり(笑)
アンドリューが避けたからそのまま話続いてますけど、避けてなかったら顔面複雑骨折してその瞬間映画どころかハゲ指導者(テレンス・フレッチャー)の人生も終わってましたよ。

これはやりすぎ。椅子を投げつけられた後も、何度も頬を叩かれながら容姿をなじられ両親を侮辱されますからね。
アンドリュー、我慢強すぎだろ。
私だったら顔面に蹴り食らわせてたよ。

と、開始15分くらいでこのようなシーンになるので、逆に私は興味を惹かれました。
「この映画の設定、2010年以降って本当かよ。1980年代設定の間違いなんじゃねえの?」

スポーツではないですが、今作『セッション』は「スポ根」映画です。
この時点で拒否反応が出始めた方は観ないほうが良いかと思われます。

アンドリューすげえじゃん!と思った方は適性があります。
ハゲ(テレンス)をぶっ殺したくなった方はもっと適性があります。笑

これが絶賛される世界は懐が広いのか、あるいは…

冒頭でも触れましたが、
この映画が絶賛されている映画業界は確実にブラックです。良く言えば、懐が広い。

すごい映画なのは間違いありません。
が、公に評価されるべき映画ではないのも確かです。

別にクソみたいな経験がない人からすれば、「少し尖った音楽映画」くらいの認識なんでしょうかね。
ラスト15分を絶賛するのはわかりますが、それまでの(いろんな意味での)犠牲が多すぎます。

いわゆる「温室育ち」だと新鮮に感じて楽しめるのでしょうか。

有り体に言えば「賛否両論ある」作品なのでしょう。
(賛否両論のない作品なんてこの世にないですから、この言葉では何の評価もできていないことにいい加減気付いてほしい)

ハゲ指導者の行為についてはともかく、映画としてのクオリティは最高峰です。ハゲ指導者のやったことを除けば、ですが。

どうあがいてもハゲの行為が許されることはない

テレンス(ハゲ指導者)の椅子投げと頬叩きがなければ、「超熱血のスパルタ指導」で済んでたかもしれないですが、フィクションであっても許容範囲をゆうに逸脱してます。
(後述しますが、この映画の結末にそれほど価値はないという意味での「フィクションであっても」です)

私だったら椅子投げされた時点で顔面ぶん殴ってました。

殴りやすそうな頭してるだろ?なぜ殴らない?
後先のことなんか考えずぶん殴れよ
とイライラしたくらいです。

ああいうイキったキチガイ指導者が地面に這いつくばって血だらけでこちらを見上げる表情。

私にはその光景に見覚えがあります。
何度も何度も脳内に思い描いたことがあるからです。

本当にこの映画は学生時代を彷彿とさせてくれました。
あの時は年齢的にも当然ですが、未熟でまじめすぎました。

今だったら逆にためらいなくぶん殴るでしょう。

学生時代は優しすぎたせいで、精神が潰されてしまいました。
殴ればよかったんだよ と今でも後悔しています。

シンクロすることが多すぎです。
元生徒が自殺したのも、子供には優しいのも、自分に酔ってるのも、何か崇高な目的を達成しようとしていると勘違いしていることも、

全部心当たりがあります。私の場合、音楽ではなく運動部ですが。

今なら確実にぶん殴ってます。
その後、顔面を蹴り飛ばします。

それで殺してしまっても後悔したでしょうか?

いや、あれから15年以上たった今でも脳裏を過ることを思えば、
その弊害が人生に著しい悪影響を及ぼしていることを思えば、
そして、今後そいつの被害を受ける学生がいなくなってたであろうことを思えば、
やはり殴っておくべきでした。

殺してしまっても今の後悔よりはマシなはず。
と未だに思ってしまうほどに「行き過ぎた指導」は禍根を残します。精神に人格に人生に支障をきたします。

現に、「教師」や「指導者」による犯罪行為は今も枚挙に暇がありません。
誰かが止めなければ、負の連鎖は続いてしまうのです。
人格破綻者がその立場にいるのは、人類の失敗と言ってもいい。
将来の可能性をことごとく潰してしまう。

そうやはり、どうあがいてもハゲ(テレンス)の行為が許されることはないのです。
たかがたった一人、少しばかり上手にドラムを叩ける人間を生み出したところで、マイナスがプラスになることは絶対にあり得ません。

だがしかし…

狂気と執念

だがしかし…

この世で凡人が成り上がるには、狂気と執念が必要です。
それは間違いありません。

運がよかっただけで環境に恵まれていただけで、「幸福」な人生を送れている人間のなんと多いことか。
資本主義の歪みの中でたまたまいい位置にハマり込んだだけで、
いい思いをしているつけ上がっている思い上がりも甚だしい人間のクズのなんと多いことか。

ハゲの指導と対比して、主人公が捧げたものが彼女と別れるだけというのは、いささか物足りなすぎる感はありますが、
氷水に血だらけの手を突っ込んで感覚を麻痺させてでも練習を続けるシーンには痺れました。

久しく味わっていない感覚を思い出しましたね。

学生時代、足の親指の爪が剝がれてでも走っていたことを思い出します。
そんな熱量は大人になってからは絶対に取り戻せません。

もっと効率良い方法あるでしょとか、
今から始めて間に合うのか?ほかの有意義なことをするべきだろとか、
睡眠時間は最低6時間はとってないと脳にダメージがあるらしいとか、

いらぬ知恵を身につけて「やらない理由探し」をやることが増えてしまったこの現状。

人間の魂には科学や物理法則を超越したエネルギーがあることを失念し、
できることをできる範囲でしかやらなくなった近年の生活。

それを考えると、アンドリューの情熱を少し羨ましく思ってしまいました。

そして同時に、
「いや、まだ全然遅くはない」
そう思わせてくれました。

今の私には狂気と執念が不足している。
そのことを改めて気づかせてくれました。

天才とは?

とはいえ、この世の天才たちがこんな泥臭いことをやっていたでしょうか。
そんなことは決してないでしょう。

真の天才とは突如として現れるものです。
それは誰にも止めることはできないし、意図的に生み出されるものでもありません。

本作の主人公が後に天才と評される人間になったとしても、それは紛い物・偽物です。
なぜなら得てして人を天才と決めるのは凡人だからです。

主人公もハゲ指導者も凡人からすれば天才でも何でもありません。

ただの性格の悪いクズがいがみ合ってるだけ。
一時的にその矮小な世界で存在感を大きくしたところで、それ以外の数多の世界からすれば、クズが二人いるだけなのです。

真の天才のわかりやすい例は、野球の大谷選手。
大谷選手はこんなバカ(ハゲ指導者)みたいな人間性が狂ってる奴の指導を受けたから、あそこまで活躍できているのでしょうか? そんなはずはありません。

本人の才能と努力と選択と周りの環境とがすべて合致したからです。

大谷選手を天才ではないと否定する人間はいないし、野球に興味がなくてもすごさがわかります。
大谷選手自身が認めてもらおうとしなくてもそうだと誰もがわかる。

それを天才と言うのです。

本作セッションは天才を育成する物語ではありません。
所詮、エゴイストの矮小な世界を覗き見する物語にすぎません。

それを端的に表現されていたのが、
ほんのわずかな間だけ主人公の彼女になるニコル。

あんな別れ方をしたのに、普通、主人公の連絡先を残しておくでしょうか?
電話に出て受け答えするでしょうか?

今更謝罪してきても怒る素振りも見せず、どうでもいい感じの対応でした。
ニコルからした主人公は、それほどに取るに足らない存在。

当たり前です。

自分のことしか考えていない人間と考え方や価値観を共有したい訳がありません。

主人公側からしてもそう。
彼女と別れる程度のことで、孤高を気取ってる。

最後にコンサートに来てもらおうとするのも結局誰かに見てもらわなければ、自分という存在の努力が客観的に証明されないからです。

凡人(分野外の人)に評価を求めている。それは天才ではありません。
上述したように、天才かどうか決めるのは凡人かもしれませんが、当人が凡人に評価を求めるのは違います。

正直言って、
音楽をやるために、(他の選択肢を与えて道半ばで諦めさせようとする)父親を殺すくらいのことをやらなければ、狂気の演出(演奏)と釣り合わない、と個人的には思いました。

いずれにせよ、確実に言えるのは、音楽なんぞこの世に別に必須でも何でもない、ということ。

それを忘れてイキってる本作のハゲ指導者みたいなのはどうせ腐るほどいるのでしょう。この世の中。
音楽だけでなくどんなジャンルでも、世間知らずのクズは大勢います。

少しだけ能力に秀でている奴と引き換えに多くのクズを生み出すのであれば、社会トータルで見れば、明らかにマイナス。何もやらないほうがマシ。
紛い物の天才に世界は変えられません。世界に必要とされてないからです。

もはやそんなハゲ指導者みたいなのがのさばっていい時代ではありません。
時代遅れです。だからこの映画、スマホが出てきてビックリしましたね。

視聴中は、彼女への電話シーンいらなくね?と思いましたが、
そういう意味で(製作者も分っていて)入れたのかなという気がしています。

いろいろ古臭い映画

ラストの15分間。それだけでも名作確定です。
世界的に評価されるのは至極当然と言えます。

しかし、古臭いことに変わりはありません。

主人公側の視点から感化されて今一度狂気と執念をもって奮闘してみるか!
とやる気が出る人が増えるのならいいでしょう。

問題は、指導者側の視点の奴がいるかもしれないということです。
こっちが増えるのは大問題。
そういう低能ほどフィクションにすぐ感化影響される傾向にあるからなおさら。

ただの犯罪を熱血指導と言い換えるのは、ただの馬鹿です。
人間未満の猿か何かが間違って言葉を覚えて人間だと思い込んでいるくらいの痛恨のミスです。

この映画に影響されて阿保な指導をする阿保クズが増えていませんように。


最近は特に、暴力を使わないけれど、脳みそも使わない、別の意味で暴力的な指導者(大人)が増えていますからね。

「子供のためを思ってやっている」なんてのはすべて詭弁。本当は自己保身だけ。
実際は自分すら守れてないというのが、あまりにも滑稽。

少しすれば、ここ2年程(本当はそれ以上)の狂気が、この日本社会の狂気が、
そして、いかに自分たちが盲目的に脳死状態で迷走していたか、が明らかになる時が来ます。

もうすでに明らかになっているのですが、衆愚に周知されるのは、まだまだ時間がかかるでしょう。

…いや、周知は一生されないか、この現状を見ると。

『セッション』は陰キャ版スポ根映画

ぬるい世界で生きてることに飽きを感じているのなら本作を観ましょう。

何はともあれ、すごい映画です。

ジャンルが音楽なせいでいわゆる「陰キャ」感が満載ですが、スポーツに置き換えれば不思議と納得がいく気がします。
(ハゲ指導者を良しとしている訳ではない)

音楽をテーマにしたスポ根モノって、こんなにお互いクズ感がマシマシなるんですね。
ラストに至るまでのアプローチがとにかく「陰キャ」でした。

その気持ち悪さを除けば名作です。

まあ、ジャンルをスポーツにしてたら凡作だったでしょうけども。


以上、『セッション』の感想(評価・レビュー)でした。


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